


大徳寺から、因縁の京都御所に移動するんですが、
その途中に相国寺があります。

禅宗寺院らしい静かで雄大な境内が心を安らかにしてくれます。
ここは大徳寺の牧谿画に端を発した猿の絵「竹林猿猴図屏風」(重要文化財)があります。
牧谿の野性的な描写の猿よりも、ふわふわ柔らかでかわいく温かいかんじです。かわいさは等伯の勝ち!
では京都御所へ向かいます。
大徳寺
〜相国寺
〜京都御所
への道のり
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京都御所の中をPASでじゃりじゃり走って向かいましょう。

さて等伯とはまったく関係ありませんが、この道を知っていますか??
トマソンでおなじみ?の「現代のけもの道」ですよ。つまり、自転車けもの道ですね。
砂利道でちょっと走りづらい京都御所ですが、みんなココを走るわけなんです。 対向車が来たときなど、騎士の馬上決闘状態になります。どっちが砂利に落ちるか。いざ!決闘です。

さて、御所らしいところに到着。 残念ながら、事件の舞台となった対の屋は撤去されてしまったようですが。ここはイメージで長谷川さんを感じるのです。
長谷川さん、御所「対屋」の障壁画制作を永徳によって妨げられる
永徳がギリギリと歯ぎしりしたはずの、大徳寺三門での華麗なる等伯デビューから1年。
ついに等伯が切に望んだ絵師の頂点、天皇家のお仕事が舞い込んできます。いや、これはビッグ案件です。千載一遇のチャンスです。テンションあがります。依頼の内容は、後陽成天皇御所の造営にあたり、対屋(奥様方の住まい)の障壁画制作してほしい。とのこと。うれしかったでしょうね。30歳を過ぎて七尾に出てきた、地方の染物屋、絵仏師がまさに絵師の頂点として認められようとしているわけですから。まさに戦国時代の絵師、下克上。絵師版秀吉。「これで長谷川家も安泰!」、、、だったはずなのですが。狩野永徳が動きます。永徳、息子、弟3人そろって親しくしていた公家のもとにお土産をたくさんもって参上して、等伯外しを泣きついたのです。その甲斐あってか等伯はものの見事にこの仕事を外されてしまうのです。なんという、生々しさ。絵師同士の激しいバトルがここで繰り広げられたわけです。ギリギリと歯ぎしりしたのは今度は長谷川さんだったわけなんです。いやあ悔しかったことでしょう、頂点は目の前だったのに。。。。
現代の感覚からすると、長谷川等伯、狩野永徳といえばアーティストなわけですが、そしてつくられるものは作品となるわけですが、どうしても「職業絵師」等伯、永徳を感じずにはいられません。生々しく争い名誉や地位を求め逞しく生業をたてていた。けれど、彼らの描いた世界は、至高の美表現だったりして、いやはや過去の偉人から人間の深みを思い知らせられます。
なーんて、思いながらPASに乗って、だだーっと移動して七条まで移動!次は、長谷川家の真骨頂「智積院」!
智積院への移動の途中に、Becleの行動原理その3「道草を喰う」を敢行します。
向かうは、長谷川等伯が住んでいたとされる場所。
正確なことはわかっていません。狩野図子のように石表があるあわけではありません。「ぼんやりこの辺」を訪ねるわけですね。
等伯住居付近とされる場所は、ぼんやりこの辺です。
目的地がはっきりしない移動は不思議ですね。
たどりつくと、やっぱりぼんやり。目をこらして街並を観察します。接点を探すわけです。等伯の名残を探す訳です。

ありました。名残が。。。。
呉服屋さん。
呉服屋さんが並んでいるんですね、この通りは。
七尾時代、染色屋に養子に出され育った等伯。もしかすると、等伯はこの場所で七尾時代の原風景を大切にしながら活動していたのかもしれませんね。実際のことは全くわかりません。けれども、こんな勝手な妄想でも過去の人物を身近に感じることが出来るんですね。
Don't Think........feel.
わかりやすいルートにもどって、智積院に向かいます。
(※今回の移動は少し強行軍的移動ですのでご注意。等伯への想いがPASを走らせるのです。七条へは京の楽チャリ京都駅店からのPAS移動をおすすめします。)
京都御所
〜智積院
までの道のり
ここが智積院。三十三間堂や、京都国立博物館のすぐ近くなんですが、意外と人が少ない場所なんですよね。

等伯、楓図を描く
千利休の半年後、秀吉の愛児、鶴松が幼くしてなくなります。まさに切望していた跡取りを亡くした秀吉の悲嘆ははかりようもありません。秀吉は壮大な祥雲寺(現・智積院)を建立し、鶴松の菩提を弔うことになります。そこで白羽の矢が立ったのが、等伯率いる長谷川派でした。 ここで等伯が描いたのが、等伯展のポスターにもなってる「国宝 楓図」なわけです。

長谷川等伯 国宝 楓図壁貼付 4面 各172.5×139.5cm 紙本金地着色 文禄2年(1593)頃 京都・智積院蔵
巨大な楓が左右に枝を伸ばし、画面全体に楓の葉や秋の草花がふんだんに描き込まれています。そして、傍らには等伯の息子、久蔵の「桜図」が並んでいます。長谷川派のクライマックスとも言える空間が智積院にあります。
この智積院に訪れたのは1月末。まだ、楓図も桜図も宝物館にありました。
これから、沢山の方がこの作品と会うことになるわけですが、当日、この場所にいたのは私たった一人。長谷川派の作品に囲まれ贅沢な時間を過ごせたわけです。
楓図を眺めていると、争ったはずの永徳の「檜図屏風」(国宝、東京国立博物館蔵)をおもい出させます。大胆な永徳の画風に比べ、等伯は繊細で可憐。そして同じモチーフを繰りかえすデザイン性はその後の淋派へと繋がる感覚。不思議ですね。争った絵師同士のはずが、否定しつつも肯定し、次の世代へバトンタッチをしている。そんな気がしましたよ。
天下の豊臣秀吉の威信をかけた大事業を一手に担った長谷川派はこの仕事以来、絶大な勢力を誇ることになります。
そんな栄華の絶頂を極める等伯にまたしても不運が訪れます。自分の後継として考えていた長男久蔵が「桜図」を書き終えた2年後に26歳の若さで夭折するのです。等伯展の目玉のひとつ、「松林図屏風」(国宝、東京国立博物館蔵)は久蔵を亡くしたやり場のない思いを、そばにあった紙をつかんで描き上げたとも言われています。
そんな栄光と寂しさが隣り合わせの等伯が晩年に残した偉大な作品が、冒頭で訪れた本法寺にも残されています。
若くして亡くなった息子、久蔵を想い描いたとされる大作。
本法寺 仏涅槃図

長谷川等伯 重要文化財 仏涅槃図 1幅 792.8×521.7cm(描表装を除く) 紙本着色 慶長4年(1599) 京都・本法寺蔵
表装もいれるとなんと縦10メートル、横6メートル。
等伯展の会場になる東京・京都の両博物館ではその大きさに天井高が足りず、下の部分が床についてしまうほどの大きさ。
信仰心を介した、等伯の人生と技が、高らかに挽歌を奏でているような作品です。

1610年72歳で長谷川等伯は
この世を去ります。
等伯の墓は本法寺にあります。

そして、不思議な縁ですね。
狩野永徳の墓も、じつは、本法寺から目と鼻の先の距離にある妙覚寺にあるのです。
等伯、永徳。
戦国時代という強烈なエネルギーが渦巻く世で活躍した希代の才能たち。
彼らは、争いながらも「美」という深い絆で結ばれていたのかもしれませんね。
等伯の墓、本法寺
と永徳の墓、妙覚寺
の場所はこんなにも近く。
今回ご紹介した作品やエピソードはごく一部。

七尾時代の作品も含め、等伯の作品が一挙に揃う「没後400年 特別展 長谷川等伯」は
東京国立博物館で2010年 2/23(火)〜3/22(月)25日間、
京都国立博物館では4/10(土)〜5/9(日)27日間の開催。
美術ファンが待ち望んだ展覧会。大変混雑することが予想されます。
気合いいれて、目玉をひんむいて等伯と会ってください。
京都開催時には、展示を見たあとにPASで等伯の足跡を巡ってみるのもよいかもですよ。智積院では息子久蔵の桜図にも出会えます。

また、「美術の窓 戦国絵師 長谷川等伯 絵筆で天下を獲る」は2/20(土)に発売。
等伯を深く知ることができる企画が目白押しですよ。これで等伯展の準備をしちゃいましょう。
あ、、Becleのページもあります。。。
must buy!
「美術の窓 戦国絵師 長谷川等伯 絵筆で天下を獲る」 2010年2月20日(土)発売
・教えて松嶋雅人さん 長谷川等伯ってどんな人?
・対談 山本兼一+山本英男 熾烈なバトル 等伯vs永徳 桃山の覇者はどちらだ?
・日本建築史の見地から祥雲寺(智積院)障壁画の在りし日の姿を再現 小沢朝江
・動物へのまなざし 黒田泰三
・対談 島尾新+板倉聖哲『等伯画説』から読み解く等伯の墨絵表現への道
・等伯をめぐる人々 祖父、父、そして長谷川派 北原洋子
・「竹林七賢図」修復の現場から
・「仏涅槃図」に秘められた等伯の想い 大塚日行
・長谷川等伯子孫による等伯の技法の特徴と長谷川派粉本公開
・becleで等伯ゆかりの京都をめぐる自転車散歩